鶯の歌  小熊秀雄
それを待て、憤懣の夜の明け放されるのを
若い鶯〔うぐひす〕たちの歌に依つて
生活は彩〔いろ〕どられる
いくたびも、いくたびも、
暁の瞬間がくりかへされた
ほうほけきよ、ほうほけきよ、
だが、唯〔ただ〕の一度も同じやうな暁はなかつた、
さうだ、鶯よ、君は生活の暗さに眼を掩〔おほ〕ふなかれ
君はそこから首尾一貫した
よろこびの歌を曳〔ひ〕きずりだせ
夜から暁にかけて
ほうほけきよ、ほうほけきよ、
新しい生活のタイプをつくるために
枝から枝へ渡りあるけ
そして最も位置のよい
反響するところを
ほうほけきよ、ほうほけきよ、
谷から谷へと鳴いてとほれ
既にして饑餓〔きが〕の歌は陳腐〔ちんぷ〕だ
それほどにも遠いところから
われらは飢〔うゑ〕と共にやつてきた
悲しみの歌は尽きてしまつた
残つてゐるものは喜びの歌ばかりだ。



 小熊秀雄(1901/明治34年—1940/昭和15年)は、満州事変1931年)を契機とする左翼弾圧によるプロレタリア詩退潮期に登場した詩人である。1935年(昭和10年)に出版された『小熊秀雄詩集』の序で「読者諸氏は私のこの詩集の読後感として、『ある特別なもの』を感じられることと信ずる」と書いているが、「しゃべり捲くれ」と歌う小熊秀雄の詩には従来の詩には見られない「新しい生活のタイプをつくる」意欲があった。それは、上記の「鶯の歌」——とくに、終わりの5行あたり——にも明らかに現われている。小熊秀雄の自由を追求する明るい精神は独自の詩を作りあげていったが、貧窮と結核が進行するなか、やがて「ふるさとの馬よ/お前の胴体の中で/じつと考へこんでゐたくなつたよ/『自由』といふたつた二語も/満足にしやべらして貰へない位なら/凍つた夜、/馬よ、お前のやうに/鼻から白い呼吸を吐きに/わたしは寒い郷里にかへりたくなつたよ。」(「馬の胴体の中で考へてゐたい」)という詩句が書かれ、昭和15年11月20日、秀雄は豊島区千早町のアパートで死んだ(享年39歳)。岩田宏編による岩波文庫版『小熊秀雄詩集』は詩人の生き方について考えさせられる詩集である。「蹄鉄屋の歌」をはじめとする小熊秀雄の諸詩篇はこれからも読み継がれていくだろう。(2009.08.24 文責・岡田)